ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

『学び合い』の失敗もALの失敗も根は同じ?

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今日は気軽に読めそうな積読を一冊片付ける。

今日読んだのは自分の一年の授業の振り返りということもあってこれ。 

私は『学び合い』にこれで失敗し、これで乗り越えました。

私は『学び合い』にこれで失敗し、これで乗り越えました。

 

何だか怪しいビジネス書みたいなタイトルですが、内容としては充実していると言えます。

個人的には『学び合い』を実践することはないだろうと思う。

s-locarno.hatenablog.com

けど、一斉指導の硬直化した授業よりもよほど「マシ」という西川純先生の主張はよく理解できる。

そんな思いもあって、成功事例集よりもよほど参考になるであろう失敗事例集には興味がありました。

折り合いをつけられない大人たち

いきなり強烈な見出しをつけたけれども、この失敗事例の中でもっとも重要な「教訓」は「折り合いをつけられないのは子どもではなく大人の方だ」ということが授業を失敗させる原因になっているということだと自分は強く感じた。

『学び合い』という手法については、少し調べてみれば分かるが以下のような激しい反論も少なくない。

『学び合い』の欠点は,自力解決できない子,自力解決しようとしない子が,できる子,できた子のノートを写す=自力解決しないですまされる習慣がつくことにあり: 教育失敗学から教育創造学へ

『学び合い』とは,クラスの仲間から嫌われないように,教師に利用されることを強制される教育であるようだ: 教育失敗学から教育創造学へ

教育の窓・ある退職校長の想い:『学び合い』研究グループに思う。

まあ…それぞれの記事の内容も個人的には、まったく賛同できないのだけどこういう話もあるんだということは知っておいていいでしょう。

おそらく『学び合い』をこうやって非難するような方々は、国語科のいわゆる単元学習もRWやWWのような方法にも何らかの批判を述べられる可能性があることを思えば、自分がやりたいことともどこかでぶつかってくる可能性は高いしね。事実、普通の学校でいきなり今までの一斉授業と異なることを始めれば、大きな軋轢を生むことになる。

ここで重要なのは、この「失敗本」では、そのような「大人側」の軋轢についての事例も紹介されている。その軋轢は教員同士であることもあれば、教員と保護者の軋轢であることもある。

そして、その軋轢が授業の継続を難しくするほどに大きくなってしまう原因として「折り合いをつける」ということをできなかったということが説明されている。

『学び合い』の重要な観点に「異なる考えの人と折り合いをつける」ということがある。しかし、その「折り合いをつける」ということを教員自身が実践することができていないということが、この「失敗本」では何度も繰り返し出てくる。

例えば、保護者や同僚から「学び合う授業で学力の保障はできるのか」という質問が出てきたときに理屈で説き伏せようとしても、結局、水掛け論となってしまって信頼を得ることができないで事態を悪化させてしまったという。

もちろん、行っている教育に対して「説明責任」はある。「なぜ、今、この学習が必要なのか」について説明できないようなことを授業するのは論外であるが、「説明」を「説得」だとか「論破」だとかに置き換えてしまうと上手くいかない。

しかし、どうしても教員にとって指導方法はあたかも人格と結びついているかのようなナイーブな面があり、真正面から議論になって相手を論破してしまうと相手の面子をつぶしてしまうことになる。

正直、潰してやって恥をかかせて反省させたほうがマシになるんじゃないかと思うような場合も少なからずあることもなきにしもあらずもなくない*1のだけど、それでもやっぱり相手の面子をつぶすようなことをやってもろくなことにはならない。

でも、つい「話し合って分かってもらおう」とやってしまうのだけど、「わかってもらう」というのが非常に一方的な態度であって、決して「折り合いをつける」という態度からは離れている。

そのようなブレた姿を見ている子どもからすれば「一人も見捨てない」という言葉の元に「折り合いをつける」ことを学んでいくことを求められても、それは空虚にしか響かないだろう。

だから、別に『学び合い』に限った話ではないが、本当に社会の中での在り方を学ばせたいと思うのであれば、教員の方が「折り合いをつける」という姿を知るべきだろうとは思う。決して、説得ではなく。

生徒にとっての必然性

協働して何かの課題に取り組むときに『学び合い』に限らず、多くの場合に問題になるのが「できる子どもの負担が大きい」のではないかということだ。

この失敗本のなかでも、そのような失敗事例のために生徒にそっぽを向かれてしまったということは述べられている。

考えてみれば、生徒にとってみれば「自分でできることなのにわざわざ協力なんてしたくない」「自分が頑張ったのにタダ乗りしてくるのは自分が丸損だ」というような思いを抱いても当然だ。

そもそも、アクティブラーニングの文脈でも問題になるけど「なぜ、協働しなければならないのか」ということについては、教員は真摯に答えられなければならない。協働の必然性がない場面で協働をさせようとしても上手くいくことはない。

この失敗本の中で描かれている失敗の仕方は「協働することはいいことだから協働しない生徒はよくない」という判断であれこれと動いてしまっていることだ。だから、本来、その前提として問い直されなければならない「なぜ協働が必要なのか」ということについての意味を説明できなくなってしまっている。

しかし、教室の中での「協働」の必然性ということはかなり説くことは難しいなぁとつくづく思う。「対話」の必然性の方が認知の側面からも理屈で説明しやすいかもしれないが「協働」そのものは話していくのは難しいよなぁ……。

協働が目的ではなく、個が目的である

「協働」は難しい…と悩ましいことを言っておきながら、結局、重要なことは「協働できたかどうか」ではないということも重要だと感じる。「協働」しなくてよいということではない。必要に応じて協働しつつ、学びの成果としては「個」の成長の有無をきちんと見極めなければいけないということだ。

「協働」を目的にしてしまい、一人一人の生徒の成長が保障されていなければ、子どもは教員から見捨てられたと感じるだろうし、保護者からすれば自分の子どもの面倒をみてくれない怠慢な教員に見えることだろう。

大切な価値観として、「一人も見捨てない」ということは揺るがいないとしても、その根本に「自分も他人も個人個人が成長している」ということがなければいけないということだ。

これは別に『学び合い』に限ったことではない。例えば、アクティブラーニング型の授業でも「個―協働―個」のサイクルは重視されている。

smizok.net

国語の単元学習だって、大村はまの学習記録を見れば明らかであるけど、どこまでいっても「個」の学びが揺るがない。

全員が成長することを願うのであれば

「全員が成長すること」ということに向き合った時に、今までの授業のままでよいかという質問に、「力量でどうにでもできる」と答えるのはずいぶん楽天的な答えであるように思う。それとも「やる気の問題で自己責任」というのだろうか。

「全員を、誰一人例外なく、成長させたい」ということ……実はそれも自明ではないのが学校という場所かもしれない。

そういう価値観の人とも折り合いをつけることが必要……なのだとして、本当に「折り合いをつける」ということはきついことかもしれない。

*1:この内容はフィクションです

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