ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

レポートの指導をどう考えるか

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学年末の最終レポートを提出させましたが、ようやくそのレポートの添削も終了。着々と年度末に向けて準備を進めているという感じです。

今回のレポートについては、どちらかと言えば、「書くことで読んだ内容を整理する」という意図で出題しているため、細かい誤字の指摘や文のおかしさについては目をつぶり、できるだけ生徒が何を考えてきたのかということを読みとることにエネルギーを使いました。

何を狙うのかという難しさ

 「学生を思考にいざなうレポート課題」でも指摘されているけど、生徒に書かせるレポートで何を狙うかの設定を明確にしておくことの意味は大きい。 

学生を思考にいざなうレポート課題

学生を思考にいざなうレポート課題

 

 当然ながら、何か新しい斬新なアイデアを求めることも無理であるし、大学生のレポートのように、きちんと体系立ててオリジナリティのある文章を書かせることも、自分の指導している生徒の現状のレベルでは厳しいと思っていた。

しかしながら、だからといって、「ネットからコピペしてくればいい」ということや「何となく良いことをいえばいい」というような思考停止したレポートを書かれるのは避けたかった。

特に、「コピペ」については、色々な教科や総合学習で、比較的安易に見逃されてきてしまっている様子があるため、徹底して指導しなければいけないと思っていた。
もちろん、厳密な形式での引用を指導するほどの余裕はないので、どちらかと言えば、作法を紹介することで「引用はよいけど剽窃は許されない」という態度を指導できればよいだろうと妥協。

今回は必ず何かしらの参考文献を引用せよという指示を出した。

内容の深まりは……

一方で、やっぱり気になっているのは「何となく良いことをいえばいい」という態度の根深さだ。

 

www.s-locarno.com

 

今回は「学生を思考にいざなうレポート課題」を参考にして、授業の内容を引用して盛り込むことを条件として(逆に言えば、授業の内容を要所要所でまとめていれば、それをまとめるだけでレポートになるという)、自分の頭で考えることを求めてみたのだけど……。

結果から言えば、自分の想定が甘かった。

結局、何百枚とあるレポートの内容の大部分が彼らが手元で持っている副教材やウィキペディアの引用や改変が繰り返されており、授業の内容とは無関係に書かれてしまった感じがある。

このようなことになってしまった原因の一つには、時間を十分にとれなかったことは大きい。一応、授業で一コマはレポートを書く時間として確保するようにしたのだけど、それでも時間が足りなかったのだろうなぁと思う。本気で内容に手を入れるのであれば、もっと莫大に時間はかかる。

当初の目的である「内容の整理」という点については、授業内に書いた要約や紹介した文献を借りてきて引用して論じたりというような形で、それなりにがんばってくれたという感触はある。

逆に言えば引用元が同じものに偏るので、結果的には金太郎飴のように同じようなレポートを何度もよむことになったのだけど…。このあたりの「ごった煮」感は少しずつ指導していかないといけないなぁと思う。

書くことで読んだことが活かされてくるか

自分にとっての比較的切実な問題意識がこれ。文章の巧い下手というよりも、「自分で与えられた題材について評価することで、その問題に対して自分にとって切実な問題にしてもらう」ということができないかということを考えている。

結局、高校で読む評論は、何もしないで「読んだだけ」であると、日常の感覚からは遠いところにあるため、自分とは無関係なものだと思われてしまい、その後の生活に活きてこないように感じている。

でも、当たり前ではあるけど、高校の評論は、評論の中でも比較的、社会とのつながりや世界の仕組みとしっかりと結びついているものであるし、研究論文のようなニッチな話ではなく、生徒にとっては「世界観」そのものを鍛えるようなものだ。

だからこそ、そこで論じられている文章については、適当に自分とは無関係なものだと思われてほしくはなく、自分にとって身近な関係にあるものだということに気づいてもらいたい。

だからこそ、「題材について論じる」というレポートを課すことで、自分の生活の中から題材を探したり、いつもは見過ごしているニュースなどに注意してみてもらったりという形になるようにレポートを設計したつもりだった。

しかし、出てきたレポートは二極化していたように思う。結局、授業の資料を要約してつなぎ合わせたような表層的なものと、逆に、話がマニアックすぎて現実世界から乖離して行ってしまっているような、高校生の知識では表層しか見えないような壮大なテーマに終始しているようなレポートになってしまい、もっと切実な問題としての論じ方をしてほしいというねらいは巧く達成できなかった。

このあたりは大いに反省しなければいけないところだ。やっぱり、どのような「論題」を出すかについて、かなり練らないと巧く行かないし、十分に考える時間を授業でとらないといけないのだろうと思う。

それにしてもやっつけ仕事は…

今回のレポートはどのレポートも基本的には力作であるし、熟考したのがわかる。おそらく、自分たちなりにテーマを読み直し、いくつもの文献を確かめて、構想を何度も練って書いてきたのはわかる。

しかし、その一方で、教科書の本文や文献の切り貼り、悪くするとあれほど注意したコピペと改竄で書いて出してきている、全く意味不明なレポートが何枚かある。
おそらく、何も考えずに直前にでっち上げてきたのだと思うが、どうしてこれが見逃されると思うのだろう?

言うまでもない、そうやって訳の分からない文章を書いていても、使っていることばがまともで、何となくすごいことを言っていればOKだと教えられてきたからだろう。
そういうやっつけ仕事を読まされることは苦痛以外の何物でもない。

このタイプの「真面目を装った手抜き」は非常に質が悪い。おそらく、今後、指導していく中で改善させていくにはかなりの時間が掛かる。それを思うと、「どうしてこれでOKしてきたんだよ…」と恨み言も言いたくなるが、仕方ない。また、今後の課題として指導していこう。

論理的な文章を書けないという批判を各方面からいただく国語の授業なのですが、論理的な文章の指導には時間が必要なのです……長い目でご覧ください。

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