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ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

1・17は過去になったのか

今の高校生は2000年生まれだ。

したがって、今日、1月17日の大震災を経験してはいない。

もっと厳密にいうのであれば、大学生であってもほとんど阪神大震災を実体験として目撃した人はない。

東日本大震災が現実のものとして辛い体験として教え子たちの中にリアリティを持っていることに対して対照的だ。

記憶の風化ということを感じることの一例だが、そんな記憶の風化には恐ろしさを感じる。だからこそ、この記憶について、きちんと教え子に伝えなければいけないという思いにも駆られる。

そんな時に生徒に示すのが次の本だ。 

生きていくための短歌 (岩波ジュニア新書)

生きていくための短歌 (岩波ジュニア新書)

 

生きていくのがしんどい…そんなバックボーンを持った定時制高校の生徒たちによる短歌が載せられている本だ。その中の一生に阪神淡路大震災に関することが書かれている。

その場に生きていた人間のリアリティ

偉そうなことをいって書き始めたものの、自分だって大震災の当時は小学生でしかないし、関東に住んでいた自分にとっては遠い別の世界の話に過ぎず、実感なんてもっていなかった。

その曖昧な記憶が実感をもって立ち上がってきたのは間違いなく3・11での経験の影響であるし、教えている生徒から阪神淡路大震災を「知らない」ということを意識するようになってから、皮肉なことに自分自身のなかに大きな傷跡ととして思い返されるようになったように感じる。

しかし、そんな「お気楽な」感傷を粉々に破壊するような厳しい現実の言葉がこの本には収められている。

崩れたがれきの下の友達が残した言葉を詠んだ歌、震災の焼け野原となった街を眺めて呆然とした心情を詠んだ歌、両親を喪ったことを詠んだ歌……どれも実直な表現で述べられるだけに、それだけに胸に迫るものがある。

この本に載せられている短歌には、「生きることにしんどさ」を何かしら抱えている人間にしか詠めない窒息しそうな苦しさが付きまとっているものが多い。

定時制高校という学校空間は、やはり「普通」から何かしら外れた部分を抱えている生徒が集まるため、その場で起こっていることは「普通」の生活からすれば、理解に難しいほどに困難さが付きまとっている。

例えば

先は厳しいですが、全員が進級、卒業してくれることを願わずにはいられません。 (P.22)

という淡々としたコメントが書かれている部分があるが、これは教員としては身につまされるものがある。ある意味で「普通」の学校に勤務している自分からすれば、「全員が進級、卒業」というのは「普通」のことであって、むしろそこから外れてしまうことの方が「例外」のように感じている節は否定できず、切実にこのことを願うことはほとんどない。

もちろん、全員がちゃんと進級、卒業するという「当たり前」を祈ることはする。しかし、それはそれが「当たり前」という前提での祈りであり、祈りに対する切実さが違う。

卒業できなかった生徒のこと、それどころか生きることまでもあきらめてしまった生徒のことさえも書かれている。これを読んでいると「勉強しろ」という対応や「やる気ないならやめろ」というような対応がいかに傲慢で尊大なのかと身につまされる。

希望への祈り

話は逸れたが、この本の白眉は個人的にはやはり阪神大震災にまつわる短歌だと思う。

上で述べたような「破壊」に対する呆然とした諦めや痛切な痛みを詠んだ歌も胸に迫るものがあるが、その一方で少しずつ生きる力を取り戻していく過程も、読み取っていくことができる。

震災直後の避難所をめぐる歌、崩れた家をどうにかしようと走り回る歌、失った両親のためにも生きる覚悟を決めていく歌……色々な背景をもちながらも、それぞれの生きる場所で生きていこうとする力強さを感じずにはいられないものばかりだ。

ただ、一方で十年以上たっても震災のことを歌に詠む様子が見られるなど、決して震災がその場で生きていた人々にとっては風化しない痛みとして残っているのだ。ただでさえ、現在進行形の自分の生活に苦労している生徒であるのにもかかわらず、十年も経った出来事をひきずりながら生きていく、その生きていくしんどさは想像が及ばない。

詠まれている歌は素朴で技術的には決して完成度は高くない。それでも、それぞれの歌に痛切な思いを抱かされるのは、それが彼らの生きる場所のリアリティだからだろう。

複雑でもなければ、平凡でもない。目に見える問題はわかりやすいほど多くある。それでもその問題と向き合うことしかできないような、単純で、単純だからこそ苦しい場所を生きている人間にしか語りえぬしんどさだ。

一年に一度くらいしか読めない

自分はこの本をあまり進んで読みたくない。なぜなら自分の立ち位置が揺らぐからだ。

「普通」の教員をしていることにあぐらをかいて、臭いものにふたをして仕事をしていることが身につまされるからだ。逆に言えば、自分が想定する「普通」から外れていくものに対して何も力を持たないからこそ、無視している不誠実さを思わざるを得ないからだ。

だから、今年の短歌の授業でもこの本は触れていない。この本を自分がさばききれないし、このような歌を詠まれても自分が受け止められないからだ。その、見えないようにしたことの不誠実さのそしりは甘んじて受けるしかない。

でも、一年に一度くらい、このような本を読むべきなのかもしれない。

忘れてはいけないことはおおくても覚えておきたくないことは多い。

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