ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

近代文学は生徒にとっては古典と同じ?

今年は高校一年生を教えていることもあり、いよいよ「羅生門」の指導に入る時期になりました。

学力の高い生徒や読書に慣れ親しんでいる生徒にとっては、どうかはわかりませんが、自分の教えている生徒の大半は、いわゆる「近代文学」にあまり慣れていません。

そのせいか、芥川龍之介や志賀直哉や太宰治を読ませようとしても、言葉の難しさやテーマの重さや価値観の差に、かなり戸惑って親しみを持てないことが多いようです。

今の生徒にとっては、近代文学は古典と同じようなものらしいのです。

生徒の負担感はどこにあるんだろう? 

これからどうやって授業をしていくかは考えていくことになるのですが、生徒にとって「羅生門」を読むことは、相当精神的に辛いようだ。

声に出して読ませてみたりじっくりと時間をとって黙読させてみたりするのだけれども、なかなか内容が頭に入ってこないようだ(というか、うっかりすると最後まで読み通せないで夢の世界に……)。「読めば分かるでしょう?」という言い方は乱暴なのでしないとしても、最後まで読んで表面的にも内容を理解したり、今の自分の価値観と比べて色々と考えたりしてもらうことは、ある程度はすすんでやってほしいなぁと思うし、「誰が何をしていた?」「この人物はどういう人?」「場面はどんな設定?」というような、いわゆる中学校まででも繰り返し訓練されている「情報を読み取る」ということについては、初読の段階である程度は掴んでほしいなぁと思う。

しかし、殊に、近代小説を読ませてみると「いやぁ…読んだんですけどね…全然、わかりません」だとか「え、何があったのかわからないんだけど!」だとか、教室全体が明らかに沈み込む様子が分かるのです。

評論や随筆を読ませたときに、それなりに初めから捉えられていることや模擬試験で出される現代小説であればそれなりに読めていることを考えると、問題は「近代文学」という題材そのものにありそうな気がする。

「読むこと」の能力を育てるだけならば…

「近代小説」を読むということは、大人でも苦手な人はいるんじゃないかと思う。実際、高校で夏目漱石や森鴎外を読んで以来、近代小説を全く読んだことがないという人は少なからずいるように感じる。

その点から考えるのであれば、別に文学の教材として近代小説に固執する理由は、それほどあるようには思わなくもない(価値がないとは言っていない)ので、「もっと読みやすいものを読めばいいじゃないか」という意見も一理ある。

実際、小説を読んで楽しむという最低限の能力については、義務教育は優れているもので、たいていの生徒は小説を読んで理解することができるくらいにはある。ちゃんと「物語を読んで楽しい」と思えるのは、それなりに物語という枠組みのお作法を理解していることである。

だから、物語を読むということに慣れ親しませることや「情報を読み取る」ということ自体に力点を置いて考えるのであれば、わざわざ読みにくい文章(樋口一葉の小説や鴎外の「舞姫」のような雅文の小説になったら、たぶん、読めない大人のほうが多いくらいだし)を、生徒にとっては古典のような文章を読ませてやるよりも、現代小説でやらせたほうがよいという意見も出てくるようなぁと思う。

でも、やっぱり外せないよね…

どうして近代小説をやらなければいけないのかということや「定番教材は本当に定番だったのか」みたいな論考は色々あるので、素人の自分が思い付きを垂れ流していても仕方ないので、結論を言ってしまえば「やっぱりやらないといけないよね」ということに落ち着く。

結局、「高校生なら近代小説を読んだという経験は必要だよなぁ」ということや「世代を超えて読まれる作品を自分が勝手に読ませないで卒業させるのは……そんな怖いことできない(笑)」ということなど、「定番はやっぱり教えないと…」という圧力で、やらざるを得ないかなぁという思いが強い。

現状、定番教材に強くこだわる理由が自分のなかに明確なものはない。好きなものを好きなように読めばいいじゃないか、別に読みたくなければ触れないでいるのもそこまで悪いことなのかという思いもある(こんなことをいうと文学が好きな先生から、割と真面目に「文学を何だと思っているんだ」「このくらい常識でしょう」というご高説を賜ることになる)。

まあ、自分自身が文学をまともに勉強していないから、こうやって文学を軽く扱ってしまうのかもしれないけど。 

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面白さをちゃんと伝えたいとは思う

文学に対してそれほど執着のない自分ではあるけど、教えるからには、嫌な思い出にさせたくはない。「難しかったけれども、面白かった」だとか「大変だったけど、ちゃんと考えた」だとか、ちゃんと「読む」という営みに参加させた上げたいと思うのです。

そのための工夫として、どんなことがあるんだろうと考えているときに、「生徒には古典と同じだよなぁ…」ということをちゃんと受け止めて考えると、次のような本を活用するのもいいかなぁと思っている。 

羅生門 (現代語訳名作シリーズ)

羅生門 (現代語訳名作シリーズ)

 
山月記 (スラ読み! 現代語訳名作シリーズ)

山月記 (スラ読み! 現代語訳名作シリーズ)

 

近代小説なのに現代語訳?という不思議な感じはするんだけれども、生徒の立場に立って考えれば、より語彙を現代の言葉に近づけた文章を用いて、授業をするということもアリなのかもしれない。

厳密に言えば、「羅生門」や「山月記」を学んだことにはならないのだろうけど、こういう現代語訳を一つの作品として取り上げて、原作の「羅生門」や「山月記」と比較読みさせていくことで、原作の言葉でしか表現できない世界観があることに気づかせていくのも良いんじゃないかなぁと思ったりもする。

たとえば「山月記」は、漢文の文体をとらないで書かれれば、テーマ自体は共感しやすいものであるのだけど、でも、あの李徴たちの世界観はやっぱり漢文でないとしっくりこない部分はあるよねと感じる。

最近は「古典」との比べ読みは、指導書や教科書に載っているくらいに一般的な指導方法になっているようだけど、生徒の作品そのものに対する理解度や関心の低さを考えると、古典との比べ読みを不用意にやってもうまくイメージは沸いてこない。

小説?文学?の指導は難しい…

やっぱり自分のなかに「文学とは何か」「小説を読むとはどういうことか」という感覚がないから、小説を教えることは毎回苦しい。

今回は、この現代語訳を使ってやってみようかなぁ…まずは。

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