ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

要求される量に反比例するカネ

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教育をめぐり、暗くなる話をいくつか。

根本的にカネがないことを色々な無理でどうにかしようとしているよねという話。

カネをかけないしわ寄せはどこに?

日経新聞に以下のような記事が出ていた。

www.nikkei.com

まあ、色々なところで言われていますが、日本は教育にカネをかけないという話です。

今回、公表された調査でも、「比較可能な33か国中32位」という結果である。

しかも、上の記事では、次のような内容も指摘されている。

公的支出に私費負担を合わせた児童生徒1人当たりの教育機関への支出を見ると、日本はOECD平均を上回っており、OECDは「日本では幼稚園や大学などで私費負担の割合が高く、家計に重い負担となっている」と指摘している。(下線強調は引用者 20016/9/16確認)

教育熱心だけれども、それは公的なものではなくて、私費での教育だということ。カネがなければ人並みの教育にならないような状況……とまでは言わなくても、教育ということの負担が自己責任にされてしまっている。

ちょうどこんな記事もあった。

jbpress.ismedia.jp

個人的には、犯人探しや「選良教育」には与するつもりはないけれども、以下の点には賛同する。

教育というのは、本来、国のもといを次ぐ次世代を育てる、国家が取り組むべき最も重要な課題で、次代の我が国をどうするか、という一大事にほかならない、はずです。

ところが「受益者負担」とはどういうことか?

教育によって益を受けるのは、その本人なのか?

そうではないでしょう!

有為の人材が育つことで社会が活性化し、結果的に税収などもきちんと確保される。国が官費、公費をつぎ込んで本気で取り組むからこそ「公教育」というのではないですか?

それが受益者負担とはどうしたことか。バカも休み休み言いなさいというのが、いまもって私が思う国難の1の1にほかなりません。(2016/9/16確認)

教育を「受益者負担」にするのは、格差を助長するということに他ならない。受益者負担を主張するのは受益者負担をものともしない層であることを無視してはいけない。

「受益者負担」を推し進める教育は格差を固定的にするための装置になるだろう。

決して教員は目の前の子どもに優劣をつけ、格差を生み出すために仕事などはしていないと思いたい。

一方で教員への要求は強く

カネをかけないしわ寄せは、当然ながら現場の教員に行く。

上の日経新聞から再び引用しよう。

日本の国公立の幼稚園から高校までの教員の14年の年間勤務時間は1891時間で、OECD平均を約300時間上回ったただ、勤務時間のうち授業時間の割合は中学校で32%にとどまり、平均の45%と比べ、課外活動や事務作業、会議などに多くの時間を割いている実態が改めて浮き彫りとなった。

また勤続15年の小中高校教員の給与は、OECD平均が増加傾向なのに、日本は05年から14年の間に7%減った。(下線強調は引用者 2016/9/16確認)

恐ろしいことに授業よりも別のことに手間取っているっていう…まあ、部活動問題などはその典型でしょう。個人的に部活については、そのうち書こうと思うが、怨嗟になりそうなので、しばらく寝かせることにする…。

仕事量は多いのに、給料はどんどん減らされている(厳密にいうと、団塊の世代の退職などがあって下がっている部分もあるんだろうけど)のは、まあ「優秀な人材が仕事しようとは思わない職場」でしょうね。

そんなキツイ職場なのに、周囲からは言いたい放題に言われる。

agora-web.jp

いや、ね…。

かと思えばこんなことを言われたりもする。

www.asahi.com

教えろと言われたり教えようとしたら批判されたり*1踏んだり蹴ったりである。

また、教育を受けている方としても教員に対しては厳しい意見が向けられる。 

特に中学以降、「国語」という科目によって、不自然な文章を書くことを強制されます。僕はそれがたまらなく嫌だった。

子どもが自発的に読書をするように育ったら、その教育は成功である。 〜僕の「書くこと」のベースを築いた幼少時代〜 - Yuttieの日記

 …強制されますという断言は、国語の教員としては反論したいこともあるが、まあ、事実として、そういう人は少なからずいるんでしょうね。

教員は「よかれ」と思ってやっているのだろうけど、結果的にそう思われたらどうしようもない。変なことをやられるくらいなら、そりゃあ自発的に読書させてくれという話も分かる。

やれないことを引き受けない

話を掘り下げると色々と酷い気分になるので、この辺でやめておこう。代わりに参考文献を紹介しておく。 

続・教育言説をどう読むか―教育を語ることばから教育を問いなおす

続・教育言説をどう読むか―教育を語ることばから教育を問いなおす

 

まあ…ちょっと5年も経つと隔世の感があるのですが、この第二章「教育は市場である」あたりを読んでもらえると、今日の話とつながるはず*2

自分のスタンスとしては、「余計な仕事を引き受けない」ということが教育の現場には必要なことなんだろうと思う。どうしても教員は子どもがいるから、子どものためにという際限のない仕事をしてしまいがちだ。

でも、だからといって教員の力には限界がある。個人の生活もある。

そうなったときに、何でもかんでも個人の教員が引き受けてしまっていては、何も変わらないのだろう。

どこかで無理が出るならば……きっぱりとできない仕事を受けないことは必要なのではないか。

*1:なお、この話題の議員は例のTweetを削除している。別に「ツイッターでの「読書感想文」に関する投稿について」という記事を書いているが、ここでの弁明は、最初のTweetで「従順にならえば恐ろしく画一的な感想文」と批判していたことに比べるとズレているように感じる。どちらにせよ、最初のTweetを検証不可能にした状態でこういった弁明をする態度は、叩きやすい教員を叩いたら思わぬ反撃を食らって慌てて弁明したという様子にしか見えない。

*2:本当はブログを書こうと思ったので、本書を探したのに手元に見つからない。どこにいったのか…

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