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ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

【雑記】学校の教員の仕事

雑記 教育一般 ICT

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ネット記事をもとに適当に話すシリーズ。

まあ、普段、教員らしきことをしているので、教員の意見を書いておこうかと。

本日のネタはこちらのネット記事です。

president.jp

いよいよ来たかぁというのが一番の感想です。知識を教えるだけならば、機械で十分になるのも時間の問題だとすれば、いったい、我々、教員は何をすればいいのだろう。

知識を教え込むことの効率性

近年はすっかりアクティブ・ラーニングブームのおかげで、「効率よく知識を教えよう」という物言いをすると袋叩きに合う気配すら感じる世間の趨勢ですが、一方で、「基礎・基本」を放り投げていいという議論はされていない以上は、「基礎・基本」にあたるような知識は効率よく教えたいものである。

「教えるべきことを効率的に」ということを考えたら、アクティブ・ラーニングのような交流や発表をやるよりも一斉授業のほうが効率がよく、一斉授業をやるよりも個別指導のほうが効率がよい…というのは、エビデンスはわからないのだけれども、経験的にわかることだろう。

まあ、個人個人が自分のレベルに合わせて、必要なことを教えてもらえることが効率が良いのはそれほど異論のない話でしょう。

そうなってくると、上で紹介した記事にあるように「AI」と「タブレット」を活用して、個人個人のレベルに合わせて指導する方法論は抜群に効率がいい。

上の記事にも、どこまで信頼できる数値かは分からないが、以下のような説明がある。

僕らの塾で調べたところ、1人の先生が30人の生徒に教える集団指導の場合、50分の授業のうち意味のある時間は5分しかないことがわかりました。残りの45分は、すでに自分が知っている話を聞いているか、逆にまったくわからない話をされていて授業についていけないのです。この時間を適正化して50分すべてをその生徒にとって意味のある時間にできたら、学習効率が10倍になって時間の余裕ができるはず。

この理屈は、同じこと一斉に教えようとする授業であれば、「それぞれの頭の中で色々考えている」などというように検証不可能なことを言われるよりもよほど合理的である。

しかも、以下の説明によれば、今までベテラン教員が「名人芸」的に授業でやっていたことを、完全に機械化して「普遍的」なものにしてしまっていると言える。

子どもたちにタブレットを配り、問題を解いてもらいます。間違えたとき、どこで躓いたのかは一人一人違います。(中略)その原因を人工知能が解析して、その生徒がわかっていない箇所に関連する問題をピンポイントで出してあげるのです。それを繰り返すうちに弱点を克服できます。

教員の技量には差がある。そして、その差を埋めるために今まで教員がやっていたことは、果てしない残業と指導方法や授業方法の検討である。

残酷な話だが、ただ、知識を効率よく一斉に教えるということであれば、いよいよ人間が時間をかけて、丁寧に教えようとしても、その効率はAIには勝てそうもない。

個人のレベルに合わせて、時間や場所を問わず、しかも誰がやっても最小限の労力で、効率よく結果が残せるのであれば、「温かみがない」とか「生き生きとしていない」というような曖昧な根拠は、否定するための根拠にはなりえない。

人間の教員はいらなくなる?

上の記事によると、「大学受験前の子どもたちは、自分で勉強する動機づけをすることが難しい」と動機づけの問題*1や学級ではいじめがなくならないからその解決に教員が必要だという。

しかし、これらは問題の本質をついてはいない。

別に動機づけということであれば、極論すれば親が肩代わりすることもできるし、いじめということも、そもそもタブレットならば「学級」という縛りが不要になる。

現状だって、N高校が数度のスクーリングで卒業できるようにしているのだから、もはや「学級の主」としての役割が教員に必須なのかも怪しい。

もちろん、たとえば、以下のような河村茂雄生の研究で、日本の学級システムのメリットが説かれているように、学級そのものにメリットがないわけではない。 

日本の学級集団と学級経営―集団の教育力を生かす学校システムの原理と展望

日本の学級集団と学級経営―集団の教育力を生かす学校システムの原理と展望

 

だが、これまでと大きく状況が変わろうとしている時代が、現在なのである。だからこそ、教員の役割とは何かということを問い直さなければならない時期にある。

このような教員の役割に対する疑問は、教員よりも周囲の世間のほうが厳しい。だから、たとえば、以下のような意見が教育界隈の外からは浴びせられるのである。 

教師って難しい職業ですけど、もういっそ、全部親に任せたらいいのかもしれません。塾・予備校に行って勉強の分野はそちらで学んで、学校生活の道徳的なものを教えるのが教師。そんな役割分担で良いと感じるようになってきました。

勤務時間16時間は働きすぎな『職業教師』ー予備校スタイルでいいのでは - Naotoのブログ解析

教員は「学力」を期待されない。

本当は、部活動問題と切り離して考えるべきであるが、この問題の一連の流れの中で「自分は教科を教えたいのだ」という主張をする教員は少なくないが、このように世間が教員の「教科指導」「勉強指導」に期待していないとすれば、この筋での訴えは聞き入れてもらえない可能性がある。

まあ、学校が勉強を教えなければ格差を助長する著しく不平等なシステムなので、そんな方法論は論外なのだけど、それでも、教員の勉強指導があてにされていない、勉強指導はタブレットで用が済むという時代になったら、「教科をやりたい」としか言わない教員は立場がなくなる。

自分自身、国語科教育についてはこだわりがあるし、簡単にいかないことのほうが多いと思っているけど、一方で、国語が国語の中で完結しているだけなら、別に自分がやらなくても、というか、もっとマシに授業する人に放り投げたほうが彼らのためだろうなと常々思う。

まともに、文学らしきものも評論らしきものも学んでこなかったので、日本語について一家言もないのだしね。

結論らしきものは……ない

現状のところ、教員の役割は何か、という問いに対する答えを断言できるほどの知識は自分にはない。

まあ、可能性らしきものは、最近、読んで紹介した。 

s-locarno.hatenablog.com 

s-locarno.hatenablog.com

つまりは、いかに「生きる」ということと、子どもたちが学んでいくことを結び付けていくのかという立場を担うという方向性である。

AIとタブレットを使った授業の効率の良さは、あくまで要素主義的な学力観で教えられることで、社会構成主義的な学力観に対応するのは難しいように思う。

というのも、たとえば、佐藤公治(1999)『対話の中の学びと成長』金子書房によると、「社会構成主義では、人は社会・文化的文脈の中でその影響を受けながら、直接的には他者と相互作用することを通して自らの考えや知識は構成されていくと考える」(P.54)とあるように、「社会・文化的文脈」の影響や「他者との相互作用」の面を軽視しては、この変化の激しい時代に対応することは難しい。知識を覚えるだけならば、機械に取って代われるからこその教員の役割の迷走なのに、子どもには知識を教えるだけでよいというのは矛盾している。

まあ、結論は見えないんです。だから、少なくとも、大村はまよろしく「実の場」を丁寧に単元でやっていくしかないと思っています。

 

*1:動機づけでも、入試という競争を与えるのと社会のことを問うのでは随分意味が違うと思うのだけど。

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