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ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

教員の技術とは何か

教育一般 雑記

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すごいたいそうなことを言っているようなタイトルですが、そんなに恐れ多いことはいいませぬ。正規の教員になって一年目のぺーぺーでございますし、わたくし。

他のブログでそんな話題が出ているので、自分も便乗しようと思いまして…。

yacchaesensei.hatenablog.com

taka-ichi-sensei.hatenablog.com

知識もないしチョークでガガガもできないけれども、まあ、少し思うところを書いてみよう。

国語の先生には恐ろしい壁がある

必要以上に持ち上げることも健全だとは思わないし、日々、過去を乗り越えていかなければいけないのだけれども、どうしてもこうタイトルをつけたくなる「壁」が国語科にはある。もちろん、それは、言わずもがな、大村はまである。

大村はま国語教室』を読むのは、物好きな国語科の教員だけだとしても、たとえば、次の本などは、国語科以外の先生でもかなり読んでいる人はいるんじゃないかな。 

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

 

これを読むだけでも、大村はまの化け物じみた授業に対する情熱を感じざるを得ない。

子どもが考えるということに人一倍敏感であり、子どもにとってその学びが真実であることに対してのこだわり、そして、教師がそれを徹底して教えてやらなければいけない責任を、自らの体験から主張している……。

大村はまの恐ろしいまでのすごさは、やっぱり実践の詳細を改めないと分からないんだろうけど、この一冊だけでも、「教えるということ」の厳しさ*1を教えてくれる。

どうしても、大村はまの思想や実践を眺めていると、教員の技術とは何かということを考えると、授業に対するこだわりと正しい見識を持つことだということを思い知らされる。

変わりゆく学力観の時代に

現在は、まさに教育とは何かが問い直されている時代だ。

そのため、そもそも「教えるべき知識とは何か」ということが問い直されているし、そもそも、教えるべきが「知識」なのかということも、簡単に断言できるほど簡単な状況にはないように思う。

現状は、一面では「主体性」だとか「協働性」だとかを言いながらも、一面では「偏差値」や「進学実績」で子ども恫喝する大人が少なくない中で、教員一人一人に自分はどのような教員になりたいのかということが突き付けられている。

次の本をぼちぼち読み始めているのだけれども、まさにそのようなことを感じる。 

「アクティブ・ラーニング」を考える

「アクティブ・ラーニング」を考える

 

この本のレビューはまた今度やるけれども、この本の中で論者が変わっても繰り返し出てくるのが、社会の変化に対する危機的状況の説明だ。

そのような時代に対応する教員になるためには、色々考える必要があるんだろうとは思っている。ドナルド・ショーン「省察的実践」的な?感覚なんだろうか。 

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

また、話を『「アクティブ・ラーニング」を考える』に戻すが、この本の中でページの大部を割いてカリキュラムマネジメントについての言及が行われており、その中で繰り返し言及されていることが「すべての教員がカリキュラムマネジメントの意識を持つこと」だ。そのことを述べている、千葉大学の天笠茂先生の意見を引用する。

学級担任制であるにしても、また、教科担任制であるにしても、教科横断の授業を教職員の個人技とするのではなく、学校ぐるみの組織的なものにすることが大切である。(中略)カリキュラム・マネジメントは、組織の運営の改善を目指すものであり、アクティブ・ラーニングは授業の改善を目指すものとして捉えることができる。しかし、カリキュラム・マネジメントは管理職のもの、アクティブ・ラーニングは学級担任や教科担任などのものと、分けて分担して捉えるものではない。両社ともに管理職を含む全ての教職員が共有すべき発想であり技法であることを確認しておきたい。(PP.130-131 下線強調は引用者による)

教員が一人で技術を独占することが行き詰まる時代なのかもしれない。あらゆる問題が細分化され、深化していく中に、たかだか親学問のつまみ食いをしたくらいの知識の教員一人が独占できるものなんてほとんどないのかもしれない。

あらゆることに応えていくためにこそ、教員こそ様々に広がっていけなければいけないのだろうし、学校の中が常に変化していかなければいけないのだろう。 

学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する

学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する

  • 作者: ピーター M センゲ,ネルダキャンブロン=マッケイブ,ティモシールカス,ブライアンスミス,ジャニスダットン,アートクライナー,リヒテルズ直子
  • 出版社/メーカー: 英治出版
  • 発売日: 2014/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本の内容は、下っ端の自分のような教員には関係ない……かもしれないが、一方で、こういう意識を全職員が共有できない組織には危機感を感じる。

自分に技術はないとしても

自分には、大村はまのような情熱もなければ、専門家のような知識もない。教員の技術と呼ぶにふさわしいものは持ち合わせていないとつくづく思う。

ただ、今のところ生活には困っていないことを思えば、誰かが上手くバックアップしてくれているのだろう。

ちょっとした声掛けや授業の構成くらいは技術と呼ぶほどのものではない。たぶん、うまく、その組織にあてはまることができたからこそ、うまく自分の力が活かせているのかもしれない。

その意味では、場所を確保する力が、教員としての技術なのかもしれないね。

*1:個人的に気になるので言及しておくが、大村はまをもって「教え込み」を正当化しようという議論は適切ではない。確かに大村はまは教員が教えることに対してこだわりをもって意見を述べているが、巷の人々が何の役に立つかもわからない知識を覚えろと迫って教え込む、覚えさせようとすることとは、まったく文脈が異なる。

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