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ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

【雑記】夏の間、毎日ブログを書いてきた効果【国語教育?】

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※振り返りである。

「ブログを始めた以上は三か月は継続して書き続けよう」と思っていたので、無事、一か月の間書き続けられたのは個人的には良かったなあと感じている。

生徒にも振り返りをやらせるわけだし、ブログを書いてきてどのような資質や能力(笑)がアクティブラーニングされてきたか(笑)を書いてみようと思います。

なお、この記事を書く気になったのは、以下のブログの内容を読んだことも申し添えておきます。

taka-ichi-sensei.hatenablog.com

結構、満足感は強い 

夏休みで比較的仕事に余裕がある時期なので、いわゆる「めんどー」な話も、本の内容を引きながら書いたりできたなぁという満足感はある。

はてなブログってユーザーならわかると思うのですが、編集画面に文字数カウントがリアルタイムにされているので、ついつい、少ない文字数で終わらせるのに罪悪感を感じてしまって、ダラダラと長くなっているような…。

結果的に、毎回2000字程度以上は書いているという。一か月で10万文字近く書いたという計算になるので、ちょっとした文庫本くらいの分量になるのかあと思うと感慨深いものがある。

実際に物理的な厚みのあるものではないので実感は薄いのだけれども、それでもブログを投稿するたびに「継続日数」や「投稿記事数」が表示されるのは、自分のやってきたことの手ごたえにつながるので面白い。

授業でも、自分たちが書いた作文の冊子を印刷して渡したり、ノートにページ数を書かせてみたりと、数量的・物理的に自分たちの学習の成果が分かるようにしているけれども、生徒がよろこんでやっている理由がよく分かる(笑)

どの教科でも本質的には同じなんだろうけど、国語は特に勉強したことと学習の成果のつながりが見えにくい。自分が頑張ったことがすぐには返ってこない。

だからこそ、こうやって何か形に見えるっていいよなぁとつくづく思う。

ネタはカツカツです。

しかし、楽しいばかりではなくて、本当、毎日継続するにはネタの少なさに悩まされる。外からどのように見えているかは分からないのだけれども、書いている方としては相当にネタの数の少なさが苦しい。

まさに「何を書いたらいいかわからない」という生徒の気持ちそのものです。難なく書いているように見えたり、まだまだ書くことがあるように見えたりするかもしれませんが、書いている方としては、本当にネタが見つからないで大変。

これは本当に国語の教員ややたらと作文を書かせたがる教員に言いたいのだけれども、生徒が「書けない」と言っているのに「いくらでも書けるでしょう?」というのであれば、自分がまずたくさんの文章を書いてみるべきだ。

ネタが見つからないところから、どのような手段を使ってネタを見つけるのか、まとまらない話をどうやってまとめていくのかという過程をやっぱり経験してみてから、生徒に色々というべきだろうと思う。

この一か月、書き続けてきた経験を活かして、どんなフォローができるのかということをワークシートなどに反映できないかなぁと思う。

頭の中は……整理されているかどうか

よく文章を書くと頭の中が整理されるというような言い方がされるし、そのようなことを目的にしてブログを書き始めたということはあるのだけど、実際、書き続けてみると、思いのほか頭は整理されなかったなぁというような印象はある。

むしろ、自分の頭の中に「確かにあったはず」の問題意識が、文章に書いて、色々と資料と突き合わせて書き続けているうちに、今まで見ないフリしていたことに直面させられたり、思いのほか、大事になってしまって手に余っているようなものもあり、なかなか思い通りに行かない。

作文の主題について、書く過程において、このような自分の考えが変化していくことについて、千葉大学名誉教授の首藤久義先生は、倉澤栄吉の考え方を引きながら、こんなことを書いている。*1

倉澤氏の言う「取材の前」の「主題」とは…(中略)…思いや心の傾きそのもののことであって、それは、わき起こり始めた雲のようなものである。

(中略)

それは、いわば、勢いのある想*2、生命のある想、生きている想である。あえて言うと「活想」とも言うべき想である。そういう想が、文章作成の過程において、生き物のように発展・展開していって、それが最終稿の形に定着して、一応の完成を見るのである。(P.206)

ここで述べられていることは、まさに自分が身をもって体験をしていることだ。自分のブログの書き方として、まずタイトルを決めてからアウトラインのイメージを持ってどんどん書き出すのだが、書いていると不思議なことに初めにあった主題らしきものは、どんどん色々な形に変わっていって、自分でも上手く制御できなくなっていくこともある、というかまさに今現在進行形で方向を見失っている(笑)

実際に、自分が体験をしてみるとこの「想の展開」*3という感覚が文字で見ているよりもよほど身につまされて感じられる。

首藤先生によれば、「活想」とは「書きたい、書かずにおれないというようなエネルギーの想」ということだ。自分もブログを書いているくらいだから、「何かを書きたい」という思いはあるのだけれども、それでもネタ切れを起こして苦しんでいる部分はある。

この不思議な矛盾した感覚はやってみるまでわからなかったので、なかなかよい経験だ。

結論として…誰か一緒にブログを書きませんか?

別に能力が上がった感じはしないし、むしろ自分の中のバラバラの思い違いが明らかになって中々な汗顔の至りなわけですが、それでもこくごのせんせーぶる以上、この書くことの体験を積み重ねていることはプラスに働いている感覚がとてもする。

ぜひ、この苦しみをこの面白さを国語に関わる先生には体験してほしいなあと思う。色々とネットを検索してみても、まだまだ国語教育の話題について書いている人はそれほど多くはないので、より書く人が増えれば、お互いに情報も共有されてプラスになりますからね。

ぜひ、こんなへたくそなブログでも、どえらい批判もされず、書くことができていますから、興味がある人は始めてみてください。

期待しております。

*1:首藤(2000)「主題・取材段階の学習指導の方法」『生きてはたらっく国語の力を育てる授業の創造 第6巻 適切に書くことができる学習指導「書くこと』より

*2:国語科教育の中の作文指導の「想」という言葉は、かなり色々な含意を持つ言葉なので、ここで説明しきれません。興味ある人は田中宏之先生などの論文をご参照ください。

*3:「想の展開」に即した作文指導ということを提唱した倉澤栄吉の論文は、首藤の本でも引用され紹介されているが倉澤1970「作文教育における評価」文化庁『作文教育における評価/国語表現法の教育』第一法規出版。その中で倉澤は「必要が想を生む」ということを述べ(P.4)この必要感をと「生活」のつながりを論じている。そうか、必要感がないからネタ切れするのか!ブログも!!生徒も!やけくそである。

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