ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

授業における二つの「活用」に関する整理

昨日の記事で「活用・探究」の際について簡単にまとめてみた。 

s-locarno.hatenablog.com

その中で、市川先生の「習得のための活用」と「探究のための活用」があるのではないかという意見を紹介し、その内容について、安彦忠彦先生が整理されていることを簡単に紹介した。

今回は、安彦先生の以下の本に述べられている意見を紹介していきたい。 

「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり (教育の羅針盤)

「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり (教育の羅針盤)

 

教師の意識を「コンピテンシーベース」に変えるための「活用」

本書の中で、現行学習指導要領に「活用」という言葉が出てきた背景について安彦先生は以下のように述べている。

教員が「知識を教えること」から「コンピテンシーを育てること」に意識を変えなければ、どんな環境を整備しても無駄になります。

そのために中教審は、具体的な提言として、教科の学習の中に「活用型」学習を導入することを勧めたのです。(P.48) 

あくまで、「活用」に関する考え方は、アクティブ・ラーニングとは無関係に、現行の学習指導要領の中で記されている目標や学習内容を達成するための方法として提言されたものである。

しつこいようだけれども、アクティブ・ラーニングについては、現在までに行ってきた実践と重なる部分は多いし、この「活用」の考え方とも重なる部分は大いにあるだろう。しかし、アクティブ・ラーニングとは何かを考えるときには、やはり今までの再生産ではすまされないと思っている。特に、後述する二つの活用型のうち「活用Ⅰ」については、完全にアクティブ・ラーニングの文脈とは異なる目的のものであるだろう。

つまり、現行学習指導要領を十全に実現するということは、「コンピテンシーベース」の授業作りという観点がどうしても必要となるということだ。

「コンピテンシーベース」で授業を考えようとすると、どうしても「探究」と何が違うのかということが疑問になる

「活用」はあくまで「つなぎ」の役割

さらに、この「活用型」について、以下のような説明をしている。

「活用型」というのは、「習得型」と「探究型」という市川伸一氏が示した学習の二つの型を念頭に、新たにこの両者をつなぐものとして考えられた型で…(中略)…「教科の時間の中で」行う学習活動の型であり… (中略)…まだ、「慣らし運転的」な学習活動として行うもので、最終的にめざす高次の「活用力」をねらっているものではありません。(P.50)

この説明は、「探究」との差や市川先生が言うように学習の型としては「習得」と「探究」があれば十分であるにも関わらず、「活用」という言葉が導入された背景と、「活用」が「応用」や「探究」などと勘違いされやすいが、それらとは異なる概念であるということを示している。

このように考えると、教科の中で「言語活動」を行うことの必然性もわかりやすい。理解や技能が深まっていくためには、どうしてもその技能や能力をその教科の文脈で使っていく必要がある。たとえば、「論理的に考える」ということ一つをとっても、数学における「論理力」と評論を読んで身につける「論理力」は異なるだろう。

どちらの論理力が優れたという議論は意味がなくて、どちらの論理力も育てておかないと総合学習のような「探究」の文脈で必要に応じて能力を使うことができない。そのため、効果固有の能力であれば、教科の文脈で十分に活用して、使い方を習得することやどのような文脈に当てはめられるかを学ぶことに意味があると思う。

本書の中でも、安彦先生も総合学習の時間が減り、その分教科の時間が充実したことについて、「従来は、「総合的な学習の時間」だけで達成しようとしてきた目的・目標を、「教科学習での力」も借りて、両者を合わせて育てようとしているのだ」(P.51)と指摘している。

現行の学習指導要領になるときに「ゆとり教育を撤回する」といった内容で、教科の授業数が増えたことばかりが取り上げられ、総合学習の時間減少があたかも「総合学習は失敗した」というような文脈で語られることが多かったが、このような指摘を踏まえると、総合学習のより充実のための改善であるという視点の重要性が分かる。

実際、「ゆとり教育」以前の詰め込み型の授業の限界を感じているからこそ、アクティブ・ラーニングという言葉に反応して、多くの実践が報告されていると感じる部分はある。

特に、高校という現場にいると、大学入試を理由に総合学習を軽視する傾向の強さを感じるだけに、この点については見失わないように授業計画に取り入れていきたいところである。

二つの「活用」の型

安彦先生は、「活用」については、その性質を分析すると、「習得のための活用」という傾向のある「活用Ⅰ」と「探究への橋渡しのため活用」という「活用Ⅱ」に分けて考えられるということを説明している。

それぞれの性質の一部を紹介しよう(PP.53-54:強調は引用者による)。

活用Ⅰ

  1. 教科学習で習得した知識・技能のうち、活用させておくほうがよいものを、教師が選んで活用させる。
  2. (略)
  3. その知識・技能の活用の文脈は、子どもにはすぐわかるような開けた既存の文脈で活用させる。
  4. 原則として、子ども全員に、共通に経験させ、達成させる
  5. (略)

ポイントとしては「習得」に力点が置かれているため、「教師」がどのタイミングで指導するかが効果的なのかということを適切に考える必要のある「活用」であり、「習得」という性格を持つ以上「すべての子どもに」という点が強調される。

このような性質の授業としては、昨日紹介した市川先生の「教えて考えさせる授業」があてはまると思われる。詳しく論じる余裕はないので、次の本を確認してもらいたい。 

「教えて考えさせる授業」を創る―基礎基本の定着・深化・活用を促す「習得型」授業設計 (教育の羅針盤)

「教えて考えさせる授業」を創る―基礎基本の定着・深化・活用を促す「習得型」授業設計 (教育の羅針盤)

 

活用Ⅱ

  1. (略)
  2. 教科学習の一部として、教師と子どもとが、半々に関わるもの。(ヒントを含む、半誘導的なもの。⇔一方、総合的な学習=探究の場合は、すべて自発的なもの)
  3. その活用の基礎にある文脈自体も、子どもには新しいもの。
  4. 全員に共通に経験させるが、個々の子どもによって、達成度は異なってよい

つまり、「完全に子ども(たち)主体で、問題も自ら立て、その解決に既知の知識技能を自ら総合的に使う」学習としての探究型(P.55)を実現するために、教科の中で十分に実施されることが期待されるのが、この活用Ⅱである。

授業の中で「活用Ⅰ」までたどり着いても、「活用Ⅱ」まで意図的に組織している授業はまだそれほど多くないように感じる。

特に「生徒の理解度」について、「差があってよい」とする「活用Ⅱ」と「全員」にある程度は等しく達成させたい「活用Ⅰ」との差異は、授業の目標や評価の設計にも関わるが、あまり意識的に扱われていなかったように感じる。

たとえば、ルーブリックを用いた評価は「活用Ⅰ」について用いるのは不適切に見える。習得を主眼に据えた「活用」であるならば、全員が一定の水準を達成することを求めるべきで、質的な差を明らかにすることにそれほど労力を割く意味はないだろう。

逆にルーブリックを用いるならば「活用Ⅱ」のようなものを評価するべきで、そのルーブリックも、「探究型の学習」にどのようにつながる発展性があるかという観点で整理した方がいいと考えられる。

今後について

自分としては「活用Ⅰ」と「活用Ⅱ」の区別に関しては、市川先生の「教えて考えさせる授業」と併せてちょっと考えてみたいと思う。

国語において「活用Ⅰ」と「活用Ⅱ」の区別は、他教科よりもさらに区別が難しいような気がしているため、そのあたりの整理をしながら授業を組み立てられないかなぁと思っている。

なお、昨日も紹介したが、この活用をめぐる議論とアクティブ・ラーニングの関係性については、安彦忠彦先生が以下の本で本書の内容を発展させる形でまとめている。 

高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)

高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)

 

 もう細かくなりすぎるのでこのブログでは書く気はないので、気になる人は読んでみてください。

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