ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

【書評】続・『公教育をイチから考えよう』を読んで考えること

昨日の続きです。 

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今日は、苫野一徳先生のパートに関しての紹介と考えたことを書いていきたいと思います。 

公教育をイチから考えよう

公教育をイチから考えよう

 

 

なお、苫野先生のパートについては、先生の著書である『教育の力』などとも関連するところが多いため、以前、自分が書いた以下の書評も併せてご覧いただくと、今日の話にもつながるところがあるのではないかと思います。

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なぜ、教育をめぐる議論は対立を引き起こすのか

子どもを目の前にして、「こいつを不幸にしてやろう」と思って仕事をする教員はいません。(「関心がない」「面倒なことはやらない」という教員がいることは否定しませんが、それはどの業界でもそういう困った人が一定数いるのは同じでしょう。)

子どもが学校を卒業していくときにきちんと自分の進路を実現してもらうことや、将来、社会の中で挫けてしまうことなく生きていくことを願う教員がほとんどですが、同じ目標や子どもの将来の姿を共有しながらも、なぜ、「実際に指導する」という段になると、教員同士、埋めることのできない溝が生まれてしまうのだろうか。

もっというのであれば、「学校」の外側の保護者や一般の人々が教育に対して様々な意見を述べるのも、子どもの将来のためを思ってであるはずなのに、「学校」の内側の教員と信念が対立するのはなぜだろうか。

このような教育をめぐる信念の対立の原因を本書で苫野先生は、次のように整理している。

 一つは、誰もが教育を受けた経験をもっているために、それぞれがそれぞれの教育観を、強固に、そして素朴に抱いてしまいやすいということ。…(中略)…もう一つの理由は、これまで、誰もが納得しうるような教育の「本質」が力強く提示されてこなかったこと。そもそも何のための教育かということが共通理解されていないからこそ、わたしたちは、お互いの教育観や“好み”を、ただ素朴に主張し合うことになるのです(P.26)

このような観点に基づいて、この信念の対立を乗り越えるために、苫野先生は「共通了解可能な教育の本質」を明らかにすることを述べています。

原理から見た教育

では、その共通理解とはどのようなものか。それは、苫野先生が『教育の力』や『どのような教育が「よい」教育か』 (講談社選書メチエ)などでも繰り返し説明している「自由の相互承認」という原理です。

公教育という制度*1は、「この社会で「自由」に生きるための<教養=力能>」を獲得させることで「自由の相互承認」を実質化するものだといいます(P.35)。

そのような「原理」から見た時、日本のこれまでの教育政策について以下のような指摘を行っています。

「一般福祉」の原理*2は、日本の教育において、この数十年しばしば忘れ去られてきた側面もあるのです。たとえば、教育政策の根本理念が、「一般福祉」ではなく「経済成長」におかれたとしたら、教育はいったいどうなってしまうでしょう?経済発展に寄与しうる“人材”の育成には力を入れ、そうでない人たちの教育はおろそかにするということが起こってしまうかもしれません。(P.37)

この指摘はちょうどこの前紹介した安彦忠彦先生の教育新聞の記事の指摘と重なる部分があります。 

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教育をめぐり、しばしば「自己責任」という言葉が濫用されることや、現状の教育の問題点を理解しながらも、なかなか新しい改革に踏み切れない理由がこのあたりにあるように感じる。

つまり、「経済性」が教育に対する期待として大きくのしかかっている以上、競争が基本原理に定位することになり、また、学校同士も競争を強いられている以上、自分から進んでその競争を降りることが非常に困難であるのではないかということです。

学校が「競争」という構造にがんじがらめにされて、教育の基本原理である「自由の相互承認」から遠く離れたところで子どもたちの将来を各人が好きに論じているという状況を顧みると、暗澹とした気持ちになりますし、自分も一教員としてその構造に加担していることに何とも言えない居心地の悪さを感じます。

「アクティブ・ラーニング」騒動の違和感の原因

では、そのような状況から脱するために、どのような方法があるのか。

現状、教育改革として打ち出されているものがアクティブ・ラーニングになるが、そのアクティブ・ラーニングについて、本書では以下のような指摘を行っている。

もしも、「協働的・協調的」な学びが今後学校現場を覆い尽したとしたら、それはいままでのいわゆる「一斉授業」が「一斉アクティブ・ラーニング」に変わったにすぎません。つまり、授業における学びのスタイルは、結局のところ教師によって決められたままなのであり、そこに子どもたち自身の選択の余地はないのです。…(中略)…今後はまたぞろ全員に、「協働的・協調的な学び」を押しつけるのもまた、その本来の意図からすれば本末転倒だろうと思います。(P.117) 

この点に関しては、本書の別の個所で、リヒテルズ直子先生の以下のような指摘もある。

アクティブ・ラーニングが日本で形だけやたら流行っているのを見て違和感を覚えるのは、子どものラーニング・プロセスにはいろいろな型があることには注目せず、大人たちだけが、どうしたらアクティブ・ラーニングを「ティーチング」できるかで大騒ぎしているように見えることです。 (P.215)

 「どのような教育がよいのか」、「どのような学びがよいのか」という議論を行うときに、「教育の受益者」であるはずの子どもが行方不明になっているということです。

「自由」とはどのようなものかという本質を考えた時に、「自分のことは自分で決める」という性質を無視することはできないはずだ。しかし、教育をめぐる議論を行うときに「子どもが自分で学び方を決める」ということが議論に上がってこないという事実がここでは指摘されているといえる。

一方で「主体的な学び」ということを強調しながら、子どもに対してどのように学ぶのかということを「主体的に」決める権利を与えていないという矛盾がある。

もちろん、本書では「主体性」を理由に子どもにすべてを丸投げしてしまうことに対しては問題があることも指摘しているので、「権利を与えること」と「放任すること」を同一に論じることは不適である。

重要なことは、現行の学校の枠組みというものは、「どう学ぶのか」ということを教員が決めており、「一人ひとり学び方が異なる」という前提を当たり前のものとして実現することが難しいということに対して自覚的であるべきなのだろう。

その自覚があれば、授業を構想するうえでも、「この授業の方法ではあの子には苦しいかもしれない」というような視点が生まれ、少なくとも、「できないこと」や「意欲的でないこと」を生徒の責任に押し付けるようなことは少なくなるのではないかと思う。

どのような教育が「よい教育」か

苫野先生は、「よい教育」の方向性として、本書でも『教育の力』で述べている学びの「個別化・協同化*3・プロジェクト化」の”融合”を提案している。

詳細については、本書か苫野先生の著書をご覧いただくこととして、ここでは大まかな特徴についてのみ紹介する。

学びの「個別化」

「子どもの学び方は一人ひとり個別に異なるもの」という当たり前の発想を受け入れるとすると、学びの「個別化」というものはある意味で当然といえるでしょう。

前述の通り、これは放任とは異なる発想です。教員は、子どもが本来持っている学びたいという欲求や学びに対する力を十全に発揮できるように環境を整えることやファシリテートすることに力を尽くすこになります。

考えてみれば、「自分が好きなことをやっていいよ」と言われても、「自分が好きなこと」というものは、分かっているようで分からないものです。だから、子どもに「好きなことを学んでよい」と迫っても、それがうまく機能しないのは自明だ。

そうなると「自分が好きなことが何か」ということに気づけるような環境を与えたりサポートしたりすることが教員の役割として非常に大きいものであるし、非常に専門性の高い仕事であると言える。誤解を恐れずいうのであれば、「子どもの気づいていない欲求をアフォーダンスしていくこと」が教員の仕事であると言えるかもしれない。

なぜ、ここで教員の役割について言及するのかと言えば、学びの「個別化」を進めていったときに、「知識を教える」教員の役割は相対的に小さくなるから。つまり、本書でも述べられているとおり、現在はICT環境さえあれば、ネット上で優れたコンテンツがあるため、わざわざ教室で同じ時間割で子どもが勉強する必要がないからだ。

単純な教え方の上手下手では、授業だけで勝負しているネット上の動画授業のほうが分かりやすいかもしれない。そのような時代の教員は、やはり「教えること」に胡坐をかいていてはならないだろう。

学びの「協同化」

学習コミュニティ内の安心感や相互信頼感というようないくつかの条件がクリアされたときに、協同で学びに向かっていき、成果を出せたとしたら、それは一斉授業や個別学習での成果以上の成果が得られると述べられている(P.128)ように、学びの「協同化」は、子どもの学びを深めるために大きな意義のあることだ。

また、前述の通り、これだけ「好きなように学ぶ」方法が現代にはある。そうなったときに、わざわざ学校に登校しなければならない意味が、つまり、学校が存在する意味がどこにあるのかということは、避けて通れない問いだ。

その問いに対する一つの答えとして、学びの「協同化」を実現する場としての学校という役割を苫野先生は、デューイを引きながら説明している(PP.132-137)。

この学校での「協同化」を通して、「自由の相互承認」の感度を学ぶことに意義があるとし、「個別化」にとどまらず、「協同化」と融合していくことの重要性が指摘されている。

学びの「プロジェクト化」

さらにそのような「個別化」「協同化」に加えて、より深い学び、探求の学びを実現していく方向として学びの「プロジェクト化」が述べられています。

本書では、カリキュラムの中核に「プロジェクト」を位置付けていくことを提言している(P.171)。

もちろん、知識を軽視しているのではなく、「そうした知識が必要だからこそ、それらを必要に応じて、自分の探求テーマと十分に関連付けて力強く学び取れる力こそ、教育が育む力の核にするべきだ」(P.174)と述べているように、ここでは、「知識を教え込めばよい」という要素主義的な学力観ではない、社会構成主義的な学力観を主張していると言えよう。

なお、具体的なプロジェクトベース学習については、本書では「きのくに子どもの村学園」の一例のみ挙げられています。

子どもの学ぶ力に信頼を

以上の内容および昨日の記事の内容をまとめると、根本的なところにあることは、「子どもの学ぶ力を信頼する」ということと「すべての子どもに例外なく発達を保証する」ということの二点に尽きると思います。

その二点を詭弁ではなく、実質的なものにするときに、一番合理的な方法が何かと考えれば、「一人一人の学びかたは異なる」ということを認めることや「一人一人の学ぶ意欲を引き出す」という、本書で、何度も表現を変えて述べられている内容に集約されていくわけです。

その方法の一形態がオールタナティブ教育であるし、学びの「個別化・協同化・プロジェクト化」であるわけです。日本にもサドベリーバレー校が作られてきたように、少しずつオルタナティブ教育が生まれつつあるのですが、まだまだ、オルタナティブ教育の選択肢が十分にある訳ではありませんし、大多数を占める学校においては、硬直化した授業が再生産されているのが現状です。

もちろん、公教育であっても、たとえば、大小の批判はあるにせよ、茅ヶ崎市の浜之郷小学校の試みのように、教員のあり方や教室のあり方を変えていこうという試みはある訳です。 

 

学校を創る

学校を創る

 

 

個人的には、その「当たり前」が実現される一つの方法がプロジェクトベース学習だと思っていますし、現状の総合学習などの枠組みで実現可能なものだと思っています。

そこで、次回からは、少しプロジェクトベース学習について書いていこうと思います。

まさかの、連載企画に、自分でもびっくりだ……PBLに興味がある方は乞うご期待!!*4

*1:私立の学校も「公教育」です。日本の場合、いわゆる一条校というものが「公教育」を担っているという理解でよいのだろうと考えられる。現状、オールタナティブ教育学校は、「公教育」扱いされないので、公的な補助などの面で一条校に比べて不利な面が多い。

*2:「自由の相互承認」の原理を、社会政策の観点から言い直した言葉と本書では述べられている(P.37)

*3:協働(collaboration)と協同(cooperation)の違いについては、説明する余裕がないので、Google先生に聞いてみよう

*4:質は保証しない

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