ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

アクティブ・ラーニング時代の教育の主体とは

去る八月一日に次期学習指導改訂の審議のまとめ(案)が出された。

自分もそれにちなんで「アクティブ・ラーニング」について思うところを記事にしている。 

www.s-locarno.com

もちろん、自分のような素人がどうのこうの言うまでもなく、然るべき専門家からも各方面から色々な意見が述べられています。

その中でも、自分が気になっていた「教育新聞」の中の次の記事について取り上げてみたいと思います。

www.kyobun.co.jp

誰のための教育かという問い

この記事の中で、神奈川大学特別招聘教授の安彦忠彦先生は以下のような点を問題提起している。

結局は冒頭に掲げられた「社会に開かれた教育課程」というキーワードが、その基本的性格を規定している。この点についてほとんど誰も問題にしていないが、まさにこれこそが「教育」を考える際の最重要の視点である。…(中略)…「教育」一般は「人間らしい人間=人格を育てる」という個人的な一面がある。ところが、いつからか「国家・社会・地域のため」に役立つ「人材」を養成することが「教育」だということになり、大部分の日本人は「それで何がおかしいのか」と反問する時代になった。(八月十四日14時引用)

今回の指導要領の改訂が「資質・能力」の育成を柱として、アクティブ・ラーニングを導入することが大きく取りざたされる中で、安彦先生の指摘は多くの教員・学校関係者が忘れていたことであるといえる。

今回の指導要領の改訂の背景には、「審議のまとめ」(案)の総論の冒頭が「2030年の社会と子供たちの未来」について、かなり深刻に語ることからも察せられるように、「社会の中で子供たちが生き延びるため」には何が必要なのかという色合いがかなり強く打ち出たものである。

しかしその「社会の中で」という言葉が「社会のために」という言葉に容易にすり替わりやすいということは紛れもない事実だ。

この点について、上の記事の中で安彦先生は以下のようにまとめている。

現行の学習指導要領は「生きる力」という「主体」の側から構想されたが、今回は「社会のための教育課程」とされた。この違いは決定的だと思う。「教育」の本質の主と副とが逆転していることに気づくべきである。(八月十四日14時引用)

「アクティブ・ラーニング」が「主体的・協働的な深い学び」と言い換えられているように、「主体性」という側面がかなり強調されているため、教育を受ける主体である子どもについて、様々な権利が委譲されていくことであると自分は考えていたし、実際、いろいろな研究会の研究者や専門家のコメントの中にも「子どもに学び方を委ねていくことが重要だ」というような旨の言葉を聞いたこともあった。

そのため、その「主体性」ということについて、かなり「自由」や子どもの自尊心と結びついて考えられるものだと考えていた。

しかし、この安彦先生の指摘にあるように、「指導要領」の方向性を議論する際の議論のスタート地点が、「子ども」よりも「社会の要請」にあるということの意味は、かなり恐ろしいことのように思うし、そこに「形だけのアクティブ・ラーニング」が入り込む理由があるように感じる。

つまり、「能力・資質」という「社会からの縛り」によって、子どもたちの学びの方法が「アクティブ・ラーニング」にならざるを得ない状況に追い込まれているということである。その縛りがある以上、学校で行われるもの「クラス全員で一斉にアクティブ・ラーニングをする」という集団に強要された主体的な学びにしかならない。

「社会の要請に学ぶことが強制される」という話は、新しい話ではない。たとえば、苅谷剛彦先生が『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』などの著書で何度も指摘していることである。

自由で、個別的な学びというイメージを強く抱かせるアクティブ・ラーニングでありながら、一方で、全く自由ではなく、強制的な力を持っている側面を忘れてはならないように感じる。

コンピテンシーベースをめぐる議論の参考文献

安彦先生はそもそも「コンピテンシーベース」の授業を無批判に受け入れることの問題点を、日本の教育史や現行の教育基本法や学校教育法の観点に照らして、指摘している著書がある。 

「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり (教育の羅針盤)

「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり (教育の羅針盤)

 

また、コンピテンシーベースの授業の必要性を述べながらも、その問題点を指摘し、どのように改善していくのかということについて述べた本としては、次の本が分かりやすい。 石井先生の博士論文を凝縮したものであるので、エネルギーが凄い。

 

 

この本の中では、指導要領のみならず、諸外国のコンピテンシーのとらえ方のレビューや学力をめぐる先行研究についてのレビューがある。どのような学力を保証するのかということについて考えるために、非常に役立つ本である。

公教育はどのようにあるべきか

「教育」の主体が「子ども」にあるという観点は、当たり前の命題でありながら、簡単に忘れられる。実際、自分は安彦先生の指摘のように、審議のまとめで述べられていることが「子ども」と「社会」が入れ替わる構造を持っていることにすら気づけなかった。

「よい教育」とは何かを考えた時に、第一位にくるべきは「子どもが幸せになること」ということに議論の余地はないはずである。子どもを不幸にするために教育をやろうというような悪意を持つ人はいないだろう。

しかし、「子どもの幸せ」とは何かを考える段になると、主語が「子ども」から「大人」へと変化する人は少なくない。たとえば「〇〇は今は意味が分からなくても、将来に役立つから教え込むべきだ」という論法や「学校でわがままを許したら将来、社会で生きていけない」というような論法で、子どもの個性や特質を無視して「自分が考えるこのやり方が一番だ」と子どもに教室で座って勉強することを強要する大人は少なくない。

アクティブ・ラーニングが少しでも子どもの個性や特質に併せて「自由」に学ぶための観点になれば、それは望ましい。

しかし、入試やコンピテンシーというもので「全員が画一的にここまではできなければならない」という論法を取れば、容易に「子どもにとっての自由」は無視される危険性はある。

実は、このような板挟みのような教育のありかたの難しさや日本の教育の行き詰まりの状況について「イチから考える」本が先日発売になった。 

 

公教育をイチから考えよう

公教育をイチから考えよう

 

 

この本では、日本の教育が棚上げにしてしまってきた問題を改めて問い直し、新しい教育の形が提案されている。

次回、この本の内容を紹介し、日本の教育についての意見を述べてみたい。

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