ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

やっぱり混乱している「アクティブ・ラーニング」のとらえ方

いよいよというべきか、文科省から「次期学習指導要領改訂に向けたこれまでの審議のまとめ(素案)」が発表になりました。この発表を受けて、いよいよ具体的に指導要領の改訂の内容が見えてくることになる訳ですが、懸念していた通りというべきか、マスコミでの取り上げられ方や巷の反応が妙なことになっているように見えます。

つまり、今回の学習指導要領の改訂の大きな柱になる「アクティブ・ラーニング」についての取り上げられ方にかなり問題があるだろうということです。

審議のまとめ(素案)はすべての校種や教科に及ぶものであるため、いきなりすべてについて言及はできませんので、「アクティブ・ラーニング」のとらえ方について、問題のある表現について指摘しておきます。

 意図的なのか、不用意なのか

昨日の発表を受けて、今朝の新聞に次期指導要領についての報道が一気に行われました。

www3.nhk.or.jp

だいたい、どこも同じような報道の仕方なので、とりあえずNHKを例にとってみるが、「アクティブ・ラーニングを導入」「問題解決型を重視」というような表現で報道されていることが気になる。

また、上の記事は次のような一文から始まる。

  4年後に実施される新たな学習指導要領について、文部科学省の審議会は、教員が一方的に教えるのでなく、子どもたちにグループで議論させて、みずから考える力を育てる「アクティブ・ラーニング」と呼ばれる新たな学習方法をすべての教科で取り入れる方針をまとめました。(下線は筆者による)

 下線を引いた部分を読むと、あたかも「アクティブ・ラーニング」が「学習指導の新しい方法」だとか「アクティブ・ラーニングで教えなければいけないのか」というようなイメージを抱かせることになる。

何度かこのブログでも言及したが、この「アクティブ・ラーニングは学習指導の方法のひとつである」という狭い捉え方や「アクティブ・ラーニングで教えなければならない」という捉え方は本質を見失う。つまり、「知識を軽視している」という反発や「基礎基本ができないのに活用なんてありえない」という反発を生み出すことになる。

資料の表現を不用意に変えてはいけない

しかし、今回公表された「資料3-1 次期学習指導要領に向けたこれまでの審議のまとめ(素案)(総論部分)」を読むとこの報道の仕方や報道だけでの反論の仕方に問題が多いことに気づくだろう。

まず、「アクティブ・ラーニング」については次のように説明されている。

 子供たちの「主体的・対話的で深い学び」をいかに実現するかという、学習・指導改善のための視点(P.37)

 これだけ読んでも「主体的・対話的で深い学び」とは何かということが分からないので、「アクティブ・ラーニング」の中身はわからないが、意図としては後半の「学習・指導改善のための視点」という言い方にあると見たほうがいい。

この「改善のための視点」という言葉自体は去年の「論点整理」から提示されていたので新しいものではないが、「アクティブ・ラーニング」が「主体的・対話的で深い学び」の後に()付きで示され始めたことと併せても、「指導方法」に限定した論じ方をされることを警戒しているようにみえる。

だからこそ、上に引用したように「グループで議論させ」るような「学習方法」に限定してアクティブ・ラーニングを説明するのは望ましくない。

このことは、自分が指摘するまでもなく、資料の中で次のように注意深く指摘されている。

 形式的に対話型を取り入れた授業や特定の指導の型を目指した技術の改善に留とどまるものではなく、子供たちの質の高い深い学びを引き出すことを意図するものであり、さらに、それを通してどのような資質・能力を育むかという観点から、学習の在り方そのものの問い直しを目指すものである(PP.16-17)

さらに

アクティブ・ラーニングの視点については、深まりを欠くと表面的な活動に陥ってしまうといった失敗事例も報告されており、「深い学び」の視点は極めて重要である。(P.40)

と、決して「アクティブ・ラーニング」がただの活動させるだけの形態のことを指しているのではないと理解しておく必要がある。

「アクティブ・ラーニング」は子どもだけの問題ではない

また、活動させる授業を「アクティブ・ラーニング」と呼んでいると、もう一つ重要な観点を見落とす。それが「授業の改善」に取り組むべき主体である「教員」が「現状維持でよい」という程度の認識に陥る。

資料においてはカリキュラムマネジメントの文脈で

工夫や改善の意義について十分に理解されないと、例えば、学習活動を子供の自主性のみに委ね、学習成果につながらない「活動あって学びなし」と批判される授業に陥ったり、特定の教育方法にこだわるあまり、指導の型をなぞるだけで学びにつながらない授業になってしまったりという恐れも指摘されている。(P.38)

次期改訂が学習・指導方法について目指すのは、特定の型を普及させることではなく、…(中略)…全体を改善し、子供の学びへの積極的関与と深い理解を促すような指導や学習環境を設定すること…(中略)…教員一人一人が、子供たちの発達の段階や発達の特性、子供の学習スタイルの多様性や教育的ニーズと教科等の学習内容、単元の構成や学習の場面等に応じた方法について研究を重ね、ふさわしい方法を選択しながら、工夫して実践できるようにすることが重要である。(P.38-39)

 と述べられている。

つまり、「アクティブ・ラーニング」という視点から、教員に対しても常に授業改善を迫るものであり、授業の形態を形態変えるだけでよしとはしていない。

現状の職員研修が非常に硬直化した形式的なものになっていることの改善が必要であるし、また、アクティブ・ラーニングだからといって意味もなく職員研修でグループワークするだけでアクティブ・ラーニングを理解したことにされても問題である。

理解のためのスタートラインは?

今回の指導要領改訂を、アクティブラーニングを理解するために一番重要なことは、この審議のまとめが「2030年の社会と子供たちの未来」を論じることから始まっている意味を考えることだろう。

どうして「アクティブ・ラーニング」がこれほどまでに強調され、進学率から考えれば半分の子どもにしか関係しないはずの大学入試改革と教育課程の議論が同時に進んでいくのかを理解する必要がある。

そのための一つの観点が「トランジション」という観点だろう。

 

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アクティブラーニング型授業の基本形と生徒の身体性 (学びと成長の講話シリーズ)

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ディープ・アクティブラーニング

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 学校が学校の中に閉じこもってても許される時代が終わった。

だからこそ、「社会に開かれた教育課程」というように「社会」という言葉が何度も議論に上がってくる。

よく「教師は社会を知らない」という言説が言われる(真偽についてはいいたいことはあるが)が、そういうような「教師は社会を知らない」という言説が許される時代ではなくなるのだと考えるべきだろう。

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