ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

教師は子どもに自己開示を迫ってよいのか

本日、某社の研究会にいってきました。

ポケモンGoがはかどった勉強になったことや思うことはたくさんあったのですが、今日の研究会に参加して一番、感じたのが「協働」というワードに基づいて、だいぶ、交流をさせられたということです。

割と人と話すことは得意ではないため、こうやって初対面の人と交流を求められるとなかなか神経を使います。人と話をするということはかなりエネルギーを使う作業だということです。

そう思うと、生徒に「協働」を求めるということは、なかなか業の深いことではないかと思ったのです。

 自己開示って楽しい?

探求型の学びや主体的な学びという文脈が出てくると、どうしても「協働」というキーワードが出てくるために、他人と交流をさせざる得ない場面が増える。

まあ、難しい話を抜きにしても、社会で役立つ力というお題目を掲げると、その瞬間に「他者との交流」というのは避けられないものになる。

この「他人との交流」は、アクティブラーニングという言葉が流行していることもあって、授業の中でやるのが「とにかくいいことだ!」と考えられている節がある。

しかし、たとえば、たびたび紹介している溝上慎一の「アクティブラーニングシリーズ」での議論やいわゆる「学力の三要素」について見ていくと、「話し合い」や「討論」が目的になることは大きな過ちといわざるを得ない。 

 面倒な話を抜きにしても、「え、話し合わなければだめですか?」という瞬間があるにも関わらず、話し合いなさいと指示されることは苦痛ではないですか?

中には「いろいろな人と話せて楽しい」と思う人はいると思うが、自分のように他人との話し合いが苦手な場合、「何を目的に、どこまで話し合えばいいか」ということが分からない場面で「話し合え」といわれるのはかなり苦痛。特に、感想や意見を開示してほしいというのは、なかなか苦痛。「今、この段階では黙っておきたい」ということや「この話については言いたくない」ということを踏み込まれるのが嫌なのです。

表現することは苦痛なこと?

でも、その一方で、決して生産的な議論をすることは嫌いではない。むしろ、自分のやってきた実践や授業の方針について話し合うことについては、しゃべりすぎてしまうくらい話したいことはある。

また、「話すのが苦手」という生徒に対しても、「苦手というだけでは済まされないことのほうが多い」ということをちゃんと指導しなければならないとも感じる。慣れ親しんでいるはずの空間である教室でさえ表現活動ができないでいることは、その子どもが抱えている問題点を解決することを放棄し、問題を先送りにしているだけに過ぎないと思うからだ。

大人である自分であっても、自己効力感をきちんと感じられる場面では、やっぱり表現をしたいし、その一方で、どうでもいい場面では、話すことは非常に徒労感を感じてしまう。子どもであれば、なおさら、自分の発言の有効なのかどうかということについて敏感になるんじゃないかと感じる。

言葉を大切にするということ

よく「国語の授業は言葉を大切にする必要がある」なんて言いかたがされる一方で、国語の授業で空虚に使い果たされている言葉は少なくないんじゃないかと思っている。

たとえば、小説を読んだときに「はじめの感想を書きましょう」というように、感想を書かされた人は少なくないと思うけど、その一方で、その感想が授業の中で役立ったという経験をしている人は少なくないんじゃないかと思う。

一事が万事とまでは言わないが、こうやって「表現したのに認められない言葉」が積み重なることによって、たとえば「どうせちゃんと見られないから適当でいいか」という言葉に対する扱いの軽さを覚えていくことになるんじゃないかなぁと思っている。

話し合いにしてもそう。指導する教員が適切なフィードバックを返すことや自分の発言が周りから認められるという過程がないと「なんとなく活動していれば先生は許してくれる」という活動の仕方になっていく。

そういう言葉の積み重ねって非常に空虚だよなぁと思う。まさに「活動あって学びなし」の典型であるし、学びなしどころか「余計なこと学んで劣化」とも言えよう。

そんなことをかなり辛辣な口調で批判している本もある。 

対話の害

対話の害

 

 工夫の余地はいくらでもある

国語科には「実の場」なんて言葉があるけど、それはやはり「意味のある活動をさせたい」という観点から出てきているようにも感じる。国語科の単元学習で実の場といったらやっぱり大村はまだけど、大村はまのやっている実践はかなり「実の場」を意識しているものであるし、話すことの価値や意義をわかるような工夫がされている。

活動させることが主眼になりがちであるが、活動を通して子どもを育てようとしてきた先行実践はいろいろある。そういう実践を丁寧に勉強する必要があるんだろうなあと思う。

そんなわけで、「話し合えば新しい研修だ!」と思っているような研修会は、そろそろ勘弁してもらいたいところです*1

*1:結局ただの愚痴である。

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