ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

職業を中心とした指導は上手くいかないと思う理由

アクティブラーニングだとかキャリア教育だとか、巷で最近「職業」と学校の関係について話題になることが少なくない。それこそ、去年、「G型大学」と「L型大学」に大学を区別して、「L型大学」では「学問より実用的な事を教えよう!」なんて言い出し、非難の嵐が起こったりした(たとえば文科省提言「G大学・L大学」は、若者をつぶす - 大前研一 (1/2))。まあ、大学のあり方はおいておくとしても、最近、中学高校で「職業」を学習指導や進路指導で重視しようという声もちらほら聞こえている。
しかし、個人的にはそういう発想で指導を考えることは、色々な問題点があるんじゃないかなあと思っている。

 流行語と職業重視の学習指導

 最近の流行の言葉に「アクティブ・ラーニング」という語がある*1

この言葉が出てきた背景の一つには、「学校で社会とのつながりをちゃんと指導する」というような議論がある。例えば、京都大学の溝上慎一は、一連の書籍の中で「学校と社会のトランジション課題の解決のため」に「アクティブ・ラーニング型授業が必要」だと言っている(例えば、以下の書籍を参考)。

 

アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換

アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換

 
高校・大学から仕事へのトランジション―変容する能力・アイデンティティと教育

高校・大学から仕事へのトランジション―変容する能力・アイデンティティと教育

 

 


この「この学校と社会のトランジション」という考え方自体は、非常に筋の通った考えであるし、「アクティブ・ラーニング型」授業が必要となる理由もよく分かる説明であり、自分が同僚に「アクティブ・ラーニング」の必要性を説明するときには、よくひっぱてくる資料だ。

しかし、どうも最近、色々な人と話していると、この「社会につながる」という部分を不用意に「職業について学ぶこと」と読み替えて、指導に当たってしまっている人がいるように感じるし、そのような学習を切り売りしている企業もあるようだ。

「社会につながる」ということと「職業について理解する」ということは、よく似ているようだけど、同一視するのは非常に危険であるように感じる。なぜなら「職業中心型」の学習指導は、現状の色々な背景を考えると、学習指導、進路指導には上手く繋がらないと思うからだ。

色々、思うところはあるのだけど、とりあえず、「職業中心に指導すること」が「子ども達に直接的には役に立ちにくい条件が多いよね」ということをいくつか挙げてみたい。

 

子どもの職業のイメージと社会の構造のギャップ

 ベネッセは「第2回子ども生活実態基本調査報告書」という資料を公開している。

この資料の中に、小中高別の「なりたい職業」ランキングが載っているが、その順位を見ると、高校生の上位が「教員」や「研究者」や「医者」などのいわゆる専門職でしめられていることが目に付く。資料の中でも述べられている「「安定していて長く続けられる」「自分の好きなことがいかせる」ことを重視しており、職業選択における安定志向、好きなこと志向」が表れた結果のように見える。

数年前の大学入試では「理高文低」などといって、理系の入試難易度が文系よりも高くなりやすい傾向が見られていたのも、こうした「安定志向」や「専門職志向」の現れの一つだったように思う。

しかし、こうした子ども達の職業意識に対して、実際の日本の産業構造は必ずしもそれを受け入れるような構造にはなっていない。厳密な統計を見るまでもなく、「医者」や「研究者」になることがどれほど難しいかということはイメージされることだろう。「医者」や「研究者」になるのに比べれば、多少、難易度は下がる「公務員」や「看護師」にしても、労働人口に対する割合は決して高い訳ではない。

こうした「実際の労働人口」から考えて「本当にその職業に就けるかどうか分からない」という状況で、ある特定の職業についての理解を深めることを重視するような指導をすることは、ある種の欺瞞があるように感じてならない。

また、例えば、オックスフォード大学のオズボーンたちの「THE FUTURE OF EMPLOYMENT: HOW SUSCEPTIBLE ARE JOBS TO COMPUTERISATION?」などで、ホワイトカラーの職業そのものが消える可能性があるといわれる現代において、その専門職そのものばかりを指導したキャリア教育が、子ども達の十年後にどれだけ意味のある指導になるのだろう?

 

子ども達の希望に対して教える側のコンテンツの不足

子ども達、もしくはその親たちが「専門職」、ホワイトカラーの就職をイメージして、進路の希望や学習指導を期待している一方で、中高のキャリア指導の中心が「職場体験」や「インターン経験」のような形のコンテンツであることも注意が必要だろう。その職業体験型のコンテンツの中身の多くは、いわゆるブルーカラー型の職業である場合が多い。

どうしても職業の特性上、「専門職」のホワイトカラー型の職業を経験したりイメージしたりすることは、学校という場所では難しい。そうなってくると、どうしてもキャリア教育の中心がブルーカラー型になってくる。

しかしながら、その一方で、学習指導や進路選択の際に教員が生徒に伝えるアドバイスの多くは、知的労働を前提としたホワイトカラー型の職業に就くための方法である。一方で、ブルーカラーのコンテンツを「体験できるから良いモノだ」といい、普段の生活ではホワイトカラーのためのコンテンツを「将来苦労するぞ」と脅しながら指導するというのは、かなり自家撞着しているように見える。

また、ここに最近はやりの「アクティブラーニング」がくっついてくると話が混迷を極めてくる。企業の仕事の体験と称して、いい加減な調査やディスカッションやプレゼンテーションを行わせるような例も見られる。

「アクティブラーニングを指導していることになるから、こういうことをやらせるのはいいじゃないか」という人もいるんのだけど、例えば、調査一つにしても「何の目的でやるのか」ということの設計や「それらの活動でどのような力が付いたのか」ということの測定に対する認識が甘くなる。「子ども達が普段とは違うことをやって、答えのない課題に取り組んで、将来の職業のことを考えているからいいじゃないか」と。

 

もっと現実的に。もっと論理的に。

よくも悪くも今の「キャリア教育」という言葉のイメージが「汗水流して働く勤労」というところに終始しがちだ。だから、「体験」や「活動」が目に見えて行われていると、きちんと指導を行っているように見えるし、面倒な議論をしなくても「こんなことやりました」というアリバイは残る。

でも、今の子ども達が10年、20年後に働くときに、その「職業中心型の学習指導」は本当に意味のあることかということについては、批判的に考えていきたい。

特に、今後の課題とするけれども、「なんちゃってアクティブラーニング」と、「なんちゃって職業教育」の親和性が高いから、かなり、注意深く考えておきたいと思っている。

ここ最近「アクティブラーニング」が話題になっている背景には、間違いなく「学校と社会の関係」が重大な課題として注目されている側面はある。

だからこそ、その重大な局面に根深く関わる事柄であるのに、「なんちゃって」にひっかかりやすいことには、かなり注意が必要だろうと思う。

*1:「アクティブ・ラーニング」と「アクティブラーニング」の2種類の表記が混在しているが、文科省の資料では「アクティブ・ラーニング」で統一されている。一方「アクティブラーニング」という表記についても、例えば、溝上慎一は、文科省の定義との差異を意識して意図的に異なる表記を用いている。ただ、実際問題、割と使い分けがいい加減な資料もある。

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